しらせ
私は、大学のレポートに追われていた。ペンを握ったまま、静寂という森の中を彷徨っていた。考えをまとめ、進むべき方向を定めようとまぶたをつぶり、じっとしていた。前方にぽっと仄かな赤みが差したような気がした。が、その次の瞬間、心理の森の静寂と何者にも動じぬはずの私の集中は見事に崩れ去った。不意に、そして、けたたましいあの音で、容赦なく、無理矢理、切り崩された。
電話のコールのである。
稲妻の如き閃光が私の脳裏をよぎり、私はかっと目を見開いた。見えかけたと思った心理は闇の彼方に消え去った。深いため息だけが私をそっと包んでいた。
「はい、はーい。ちょっとまってねー。」
母が答える。そしてそれは始まった。私は苛ついていた。一瞬でも早く静かになってほしいと思いつつ、コールの回数をついつい数えていた。ばたばたと台所から駆け込んでくる足音がした。父と弟は留守であった。やがて、コールはやんだ。そして母の受け答えが耳にがんがんと入り込んできた。
「はい、……です。はい、……は、私ですが、……。」
「え、どちら様ですか。え、警察署?ですか。どちらの警察署なんですか。え、……の警察署?。」
「ハア、警察がいったい何の御用でしょう。夫がどうかしましたか。え、……違うんですか。」
「……ちゃん、そこにいるのぉ…。ねぇ、……ちゃん。」
母が、素っ頓狂な声で、私の所在を聞いてきた。少し不意をつかれた私は、
「え、何?、僕は2階だよ。2階にいるよ、母さん。」
慌てて、答えた。が、イライラもあって、声を荒げてしまった。母は、また電話に向かったようだ。
「息子は、ちゃんとおります。え、……。誰ですって。」
母の受け答えは続いていた。私はやむなく、ペンを持つ手を机の上におろした。そして、早く電話が終わらぬものかと、天井を見上げ、待った。
「はい、……は、私の兄です。ええ、そうです。……は、確かに私の兄です。」
「え、……、なんですって、兄が……。兄がどうしたっていうんですか。」
「そんなぁ、兄が……なんて。そんなぁ、……、嘘でしょう。兄が……」
母の声はやがて湖の底に沈み込むかのように聞こえなくなった。
「……、はぁ、わかりました。……へ行かないといけないですね。はぁ、では明日にでも、……、窺います。……、はい、はい、……わかりました。どうも、ありがとうございました。」
再び、母が答えた。少し元気を取り戻したようだ。
「やれやれ」と、ほっと吐息をして、又レポートの紙面に向かった。ペンを持つ手が漸く落ち着きを取り戻した。
階下の俗物どもが立ち去り、私は再び、思考の森にゆっくりと入り込み、その「香り」をたっぷりと吸収する体制に入りつつあった。
が、その時、再び、私の静寂は無情にも切り崩された。
「……ちゃん、……ちゃん、いないのぉ……。……ちゃん、聞こえる?」
私は、再び、喧噪の俗世間の中に引き戻された。それは、母の声であった。いつになくけだるい、情けなさそうな、か細い声であった。
私は、いつもなら、もう少し、歯切れの良い、声で呼ばれるので、ついぶっきらぼうに答えてしまうのだ。
だが、今の声は何時もと少し様子が違っていた。そんな母の声にとまどい、恐る恐る答えた。
「えっ、なにっ、お母さん。よんだぁ。」
そう答えつつ、私はレポートの紙面から顔をゆっくり引き起こしていた。母の声に応えながらも、レポートの事がまだ気になっていた。
「……ちゃん、あのね……、おじさんがね……。」
相変わらず、母の声はけだるく、重苦しい。いつもの歯切れの良さがなかった。今度はそれがかえって気になり、苛ついて、つい、声を荒げてしまった。
「なぁに、いったい、なんだょ。よく聞こえないよ。……。しょうがないなぁ。」
母は、どうやら電話台のそばに立ちすくんでいるようであった。。ごとがたと電話台が揺れる音がした。そして、受話器ががちゃんと落ちる音がした。わたしは、首を伸ばし階下の方を見ようとした。椅子に座ったままで見えるはずもないが、まだ立たずに済むものならそうしたいとおもう気があったからだ。
「……あのね、おじさんがね、……。」
やはり、一向に要領を得ぬ母の声に、私は引きずり出された。椅子をゆっくりと後ろに押しやり、立ち上がり、廊下に出ていた。階下の母の足が少しだけ見えてきた。ゆっくり、一歩、又一歩と階段に近づきながら、
「おかあさん、おかあさんってばぁ……。おじさんがどうしたってんだょ。もう……。」
上からかける言葉に、母は反応しない。あいかわらず、電話と向き合っている。向き合って、垂れ下がった受話器を、これも垂れ下がった腕の先でそっとつかみ、ゆっくり持ち上げた。そして収まるべきところに押さえ込んでいるようだ。まるで、そこから出てくる一切の言葉を押さえ込みたいかのように。だが、顔は、電話機のそばの壁の何かをじっと見つめているようだ。
母は、眼をつぶっいた。だが、遠くを見ているかのように、周りにいる者には見えたであろう。
私は、不安に駆られつつ、一段、又一段と、階下へ降りていった。そして、不安も段々と大きくなっていくような気がした。
母は、戻された受話器と電話代の端を両腕で押さえ込んでいた。だが、私が階段を下りるのにつれて、きわめてゆっくりと、そして、静かに床にへたばり込んでいった。それはよくある映画のシーンであった。
時間の流れがそこだけ、異常にゆっくりとしていた。家の中の物音、時計の音、テレビなどから流れてくる音楽、冷蔵庫の運転音、それら全てが空間の中でゆっくりと渦を巻いて、母の体の中に吸い込まれて行くかの如く、思われた。
室外の小鳥のさえずり、木々のざわめき、街の喧噪も母の廻りをぐるぐると回っているような感覚であった。母が、沈み込むのを恐る恐る遠巻きに見つめながら、一緒に吸い込まれていくといった感じであった。
私がそばに行きついたときには、もう母はすっかりしおれ込んでいた。言葉も何も出てこぬかのようであった。その視線の先は電話台の足下にあったが、勿論そこにあったわけではなかった。ずうっと遙か彼方にあったのであろう。
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